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随筆集 「林口川のほとりから」」カテゴリーアーカイブ

ロシアの長大小説

 「ああ、そういう小説作法の歴史的な発展があって・・」
と、彼は学生時代に読んだ本のいくつかを思い浮かべた。読書ノートをあらためると、「ジャンクリストフ」や「マリーアントヮネット」などに次いで63年の10月ころ、ドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んでいる。
 これらの作品は、世界文学全集本という体裁で活字がぎっしり組まれ、なおかつ、500ページ前後と分厚いので、上下巻を読み切るのに二週間くらい要していたようだ。
 その頃は、小説の歴史的な変遷など全く意識になく、ただ、そのドラマ性や心理描写の深さに感動し、「今しか、こういう本は読めないだろう」と、むさぼるように読破していた。
     *  *  *
 昨年の二月下旬、湯川豊氏の講演“丸谷才一の残したもの”を聴く機会に恵まれた。僻村塾の主催だが、会場が千代女俳句館だったので、会場のロビーホールは満席の状況。
 編集者として作家丸谷との付き合いや、その間にあったエピソードなどの紹介は、楽しめる内容だった。高名とは知っていたが、丸谷氏の著作は手元になかったので、帰りがけ並べられていた本のなかから三矢が手にした一冊が、「文学レッスン」だ。その中の一節が次の文。
 ― 18世紀のイギリスの長編小説が世に広まって、フランスに渡って、そこでディドロその他思想家たちの

知的な動向と結びついてまた発展した。それがロシアという辺境に及んだときに、19世紀ロシアの大小説という大変な騒ぎになった。―(注1)
 軽妙な丸谷の文章に惹かれて読み進んでいると、この文節に出会った。その瞬間、彼の胸中に冒頭の納得と言うかひとつの感慨が浮かび、青年期へのワープとなった。多分、小説の読後にどうしてロシアでこれほど重厚な作品が生まれたのだろうか、という疑問を抱いていたのだろう。
*  *  *
社会人になっても、この延長線上で、「エヴェゲニィ・オネーギン」(プーシキン)、「アンナ・カレリーナ」(トルストイ)、「罪と罰」(ドフトエフスキー)など、ロシアものを読みついでいる。
―「おっちゃんは外国文学はどんなのを読みましたか」「昔の学生は、ロシアものに打ちこんだ。ツルゲーネフ、トルストイ、ドフトエフスキー、・(略)」―(注2)
この文章を書き綴ろうとしていた彼の後を押すように、暇つぶし的に手にした文庫本に、上記の文節があった。
文庫本の作家は、彼の一廻り上の年代。その人たちも、同じ空気の中で青年期を過ごして来たのだなという感慨である。     

                    (’14-1-20)

[蛇足]:「スペクティター」(日刊紙)の連載小説は18世紀最大の文学的新機軸と言うべき長編小説(ノベル)を生む契機となった。(注3)

注1;丸谷才一著「文学レッスン」-44-
注2;田辺聖子著「女の居酒屋」-122-
注3;V・リヴジンスキー著、岩瀬孝雄訳「週末は楽しい」-107-

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画人・富岡鉄斎展をみて

 最も印象深かったのが「魚樵問答図」。六曲一双の右隻には、舟だまりや漁場で忙しく立ち働く人物が細かく描かれ、なおかつ画面右上へ連なる岬の峰々とそこへ接する白い海面が、広々とした海景を想起させる。人物であれ、近中景の岩山や樹木群であれ、西洋画の遠近画法からみればでたらめとも言える描法ではある。だが、これはこれなりに得心できるというか、スッと画中に入り込めるから面白い。カタログに掲載されている小図でも、鳥瞰的視点からの雄大な印象は変わらない。

 入室して最初に目にとまった作品は「果蔬図」(縦長軸装)だ。枯れ蓮・西瓜・葉菜・枇杷・栗・柿などを組み合わせた簡素な画だが、略筆ながらいずれも対象の特徴をうまくとらえており、その描写の的確さに感嘆。画軸に書き込まれた「・・試写果蔬問老農」の文字とも照応して、楽しい画となっている。この作品を含めた前期の作品のなかでは、梅の名所「月瀬図」四曲一隻の「普陀落迦山図」に親しみを覚えた。

 製作年不詳とあるが、六曲一双の「人物図貼交屏風」も興趣が尽きない。親孝行で知られる江戸時代の農民武丸正助や俳諧師松尾芭蕉、売茶翁、宮本武蔵など如何にもそれらしい風体だ。その印象をメモろうと手帳を取り出すと、画板にはさんだメモ用紙と鉛筆を差し出した館員から、「これを利用下さい」と指示される。

 独学で画業を習得した鉄斎は、「古名人の真蹟を写すことにより、その画格筆意を研究・」した。京都市美術館所蔵の粉本のなかから11図が並べられ、鉄斎の画技習得の一端が伺えた。

 50歳半ばから70歳までの中期作品では、冒頭に書いた「魚樵問答図」同じく六曲一双屏風「妙義山図・瀞八丁図」が圧巻。反対側の壁面近く身を引いても作品を一望できないくらいの大作だ。
カタログ表紙に使われている「米法山水図」のように荒い(強い?)筆遣いが多い作品のなかで、「老子過関図」は丹念で密度が高い描法を使っている。

 高齢になってなお多数の傑作を生み出す晩期の作品の中では、「茶僊陸桑苧図」がなんともひょうきんでとぼけた味の絵だ。この作品や「夏景山水図」「懐素書蕉図」などは、墨の中に僅かの付彩が効果的で印象が強い。「瀛洲仙境図」は市井の喜怒哀楽を超越した心境がそのまま絵に現されている感じだが、苔むした岩肌を白緑で大胆に塗りつぶし、人物の着衣や寺院(?)の壁面などの朱色と互いに呼応して観るものに迫る。

 2月下旬、富山水墨美術館で開催されている「画人・富岡鉄斎展」を観て来た。その時の印象を図録を参照しながら記してみた。通常、図録は購っても1~2時間も通覧すれば、書棚に収まってそれきりになるのだが、今回の鉄斎展カタログは、夕食後などに幾度も手にし、その都度新しい魅力を発見し愉しませてもらった。 

(‘14-3-15)

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沿樹伐採

 先般(2-22)“ワールドカフェ”と標して、市民協働のまちづくりキックオフ講演会が催された。いかにも役所的発想のネーミングで、「一体何をするの?」と思いつつ、私は時間的に余裕が持てるこの時期、担当窓口に直接申し込んだ。
 募集要項には定員80名程度とあったが、当日会場に入ると参加者は40名くらい。そして、市会議員や各種団体の長などを務める顔なじみが多く、一般市民という形の参加者は少ないようだと感じた。(この種の会合ではいつものことだが)会が進行して、講演者松下圭一を紹介する司会者の話を聞いているうちに、「ああ、あの本を書いた人か・」と、かなり以前に同氏の著作を読んでいることを思い出した。
 90年代後半ころより、「地方分権」という言葉が世に喧伝されるようになり、それを契機に私は田村明(横浜市のまちづくり)平松守彦(一村一品運動の推進者)倉沢進(コミュニティ論)などに混じり、松下圭一氏の「日本の自治・分権」と題した著作を読んでいた。(読書メモによれば’00-2月、書棚から同書を抜き出し、再読をはじめた)
 氏のこの日の論旨を一言で要約すれば、「協働とは、市民が公共の一部を担う」ということだが、その話を耳にしながら、私は若年時のある体験を思い起こしていた。以下、FM放送に投稿したエッセイを再録する。

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「美化清掃行事と沿樹伐採」  96-7-27
 7月中旬、当町内会で空き缶拾いなどの美化清掃作業が実施され、後日そのお礼と反省の回覧文の中に次のような一節があった。垣根や庭木の枝が道路上にはみ出し、通行の邪魔になっているケースがあり、美化運動の範囲で対処するのが難しく、町当局へ要望する問題でもない。各戸改めて確認のうえ、適切な処置を望むという意味合いの文だ。
 他所の悪いところはすぐ気付くが、自分の所はなかなか気がつかない典型例ともいえる。この文章を目にして、私は35年以上も前の青年団に属していたころのことを思い出した。
 春秋の神社祭礼の旗木立てや寺の除夜の鐘撞き等々、集落内での青年団の仕事の一つに沿樹伐採というものがあった。年に一度、道路上にはみだしている樹木の枝を切り落とす作業だ。部分的とはいえ、他家の樹木をバッサリというのは気がひける。最初は下に見ている者に何度も確認しながら、おそるおそる切っていた。そのうち、何処の家の木であれ公平に切り落とすのだと考えると、そう罪悪感も湧かない。むしろ、自分の家のものだと、つい、慾目が生じて思い切りが悪くなる。他人が手を下すから公平な仕事になる。いまやっている仕事は、集落内の秩序維持の一端を担う作業なのだと、ある種の矜持すら感じた。私有地(庭や垣根)と公道との境目に発生する一種の軋轢を、巧みに解決する先人の知恵ではなかろうか。
 純農村地帯だったわが集落も進学率の向上や他産業への就業者が増えるにつれ、青年団活動も衰退し、いつの間にかこの沿樹伐採もすたれてしまったようだ。作業に従事していた当時は、子供世代から大人への移行期でもあり、普段はできない“ワルサ”を公認してもらっているようで、カタルシス的な快感をも感じていたが、今にして思い起こせば、慣例という名の自治システムの一環だった。
 10歳余の年齢差のある若衆集団で、こうした作業を通じての人間関係の構築や判断基準の伝達、さらには年齢層に応じた集落成員としての自覚の育成などかなり輻輳した機能を果たす、まさに、自治および共助システムそのものだったと言えよう。「地方の時代」「分権社会」などマスコミ用語に雷同するだけでなく、かって機能していた、古き時代の慣例(自治機能)に目を向けることも必要ではなかろうか。
*       *       *      *
 大雪が降れば、集落総出で通学路の雪掻きをしたり、身近な道路の道普請は自前で行っていたかっての集落の自治機能を、少しづつ削ぎながら肥大してきた行政が、「協働」という名を借りて、今またそのかじ先を元に戻そうとしているのかという印象を受ける。 

       (‘14-3-11)

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中川一政館を訪ねる

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 遠出がおっくうになる冬期、近隣にある美術館や博物館をたずねてしばし俗事を離れるのが、近年私にとって恒例化。なかでも、中川一政記念美術館(白山市旭町)は最寄りとあって、足が向きやすい。先般も平日、他の来館者がいない館内をこころのおもむくまま作品を鑑賞。その時の印象をメモを手がかりに綴ってみよう。
 小品中心の第二室にある「スペイン文筥と白椿」が、幾たび訪れても心に喰い込んでくる。岩彩を薄くぬり、一見荒っぽい筆使いの絵だが、朱の文筥とバックに塗られた暗緑色が互いに調和、一輪の椿の白い花がポイントとなって全体を引き締めている。(陶板の写真参照)歪んだ形状の小筥、そのエキゾチックな絵模様の細部もほとんど描いてないが、少し離れて作品を眺めると、配色・構図とも心憎いばかりにピタリと決まっている。 ―作品に接した瞬間の共鳴感というか、すっと心が吸い寄せられる状況を言葉に表すと、もどかしいくらい冗長なものになってしまう。― 同種のモチーフを扱った作品として、「支那文筥」も同じ部屋にある。
 マジョリカ壺に赤い椿を挿した「椿」は、画面一杯に広がる椿の小枝が頭でっかち気味で不安定な構図なのだが、右下に配したクロス(十字)型のサインが巧みに重心を下げて、心理的な平衡を与えてくれる。一見無造作に見えて、すごく計算された絵と評せよう。否、むしろもう構図などを意識せずとも、永年の経験から自然に描かれた結果なのかもしれぬ・。
 マジョリカ壺は油彩の「向日葵」でも描かれているが、氏の著作の中から『マジョリカ壺はコレクションではなく実用品だ。花瓶には伊賀や備前など日本の陶器よりどうも西洋くさいものの方がうつるようだ。マジョリカは南国的で陽気で暖かみがある。少しラフな方がいい。』との抜粋文が紹介されていたが、―少しラフな方がいい-というところが、氏の画風ともマッチしているようだ。
 朱色の鯛と灰青色の鰺を配した「魚」など、暖色と寒色の対比で互いのモチーフを引き立たせる色彩感覚も氏独特というか、絵の味になっている。
 展示品の半ばを占める書も、絵と同じ不器用さが味わいとなっている。柿本人麿などの万葉歌を配した「六曲屏風」(97才)や「萬劫年経る・・」(86才)などの梁塵秘抄もの、あるいは「汝は帝王なり独り生きよ」(プーシキン)など大正ロマン期に青年期を過ごした氏の嗜好がうかがえるようでおもしろい。
 昭和61年(1986)10月10日、松任市の市制施行記念日を選んで、中川家からの寄贈作品を主体にこの記念館が開館。私が当時在籍していた日硬(現ニッコー株)社長三谷進三がその陰で尽力したなどの縁もあって、この4半世紀、4~5年に一回くらいの割でこの館を訪れているが、その都度新しい発見というか興味が見出せて楽しめる場所だ。
 (‘13-1-27記)

ドイツからの賜り物

638
 最近この店で、お気に入りになった抹茶ラテ。残り少なくなったその濃い緑色と雪のような白いラテの混ざり具合を、ゆっくり味わいながら、三矢は窓外に視線を転じた。総ガラス貼りの壁面を隔てて、道行く車や駐車場に出入りする人たちの様子が手に取るように見える。あわただしい師走の街かどだが、きれぎれの雲間より、淡い冬の陽差しが覗き、しばしのやすらぎを醸しだしている。
 3月に「イギリスからの賜り物」を記してから、次はドイツになるだろうと簡単なメモを残して置きながら、書き出しはゲーテかニーチェか。デュラーやベートベンもいると迷っている間に、いつしか年の瀬を迎えてしまった。
 この間、金沢市民劇場の例会の一つに、抗ナチズムに命を捧げた女子学生を主人公にした「白バラの祈り」という劇が上演され、ヒロイン『ゾフィー』が吐くセリフに「ドイツの誇り、それはゲーテやシラーだ。ベートベン・ワグナーもいる・・」云々があって、彼も「やっぱりね」と肯いている。

 生き方や己の存在の根源を揺さぶるようなニーチェの数々の文節。アフォリズムの宝庫とも言える中から、一つだけ採り上げよう。
 ― 芸術衝動には、過剰・陶酔・激情にむかうディオニュソス的(酒神)なものと秩序・明晰・静観・夢想の方向に進むアポロン的(太陽神)の二種類がある ―
 講談社刊の「人類の知的遺産54 ニーチェ」の巻末に、鉛筆で記入されているのは「’91・3・7読了」の文字。この年の1・2月、比較的ゆったりと読書時間がとれる頃のこと、一言一句を味わいながら読んでいたらしく、抜き書きもダントツだ。
 ゲーテは、河出書房社刊「世界文学全集2 ゲーテ」が書棚に残っている。
 読了日は1960年9月とあるから、50年以上も前で、彼にとっては、青春時代真っ只中での読書。その頃は、併載の「若いウェルテルの悩み」の方に感激していたようだ。’01年と’03年に「ファスト」を改めて読み直しているが、人生経験を重ねないとその味わいが解らない文章が多い。
 ― 金も医者も魔法もなしに、若返らせる方法。
 すぐに畑に出かけて
 耕したり、掘ったりし始めなさい
 そして、身も心も
 ごく限られた範囲に閉じこめておくのです。
 まじりけのない食物でからだを養い、家畜といっしょに・・(略)-
というメフィストの言葉などに、カラーペンのマークが印されている。
 春から秋にかけて、三矢は2haの水田の稲作に従事している。適度の労働と自然環境との交感に、日々充足を感じているが、ゲーテのこの文節などが、精神的なバックボーンとなっているようだ。
 机の上に、本棚から抜き出したばかりの新潮世界文学37「ヘッセⅡ」がある。作者の写真を表紙に配した、800ページ余の分厚い文芸書だ。その中で半分近いページ数を占める「ガラス玉演戯」は’87・1月読了の書き込みがある。文芸書はほとんど読まなくなっていたこの時期に、再読であれ書棚から取り出しているのには、それだけの思い入れがあったのだろう。
 高校生の夏休み読書感想文コンクールの推奨リストの中に、へルマン・ヘッセの「車輪の下」があって、これが彼とヘッセとの出会いのきっかけだった。その後、通学していた高校近くのT書店で、手にした「知と愛」。
ナルチスとゴルトムントという二人の友情を通して、思春期の希望と不安を繊細な筆致で描くヘッセにすっかり傾倒。
 以降日本文学では掘辰雄、外国文学ではヘッセとなり、「春の嵐」「郷愁」「デミアン」「荒野の狼」など数冊のヘッセ著作が愛蔵書として本棚の一角を占めることになった。また、学生時代は、リルケやハイネなどの詩を手軽な文庫本で親しんでいる。

 ‘73年の7~8月にかけて、県ユースホステル協会のヨーロッパホステリングの一員として、彼は30日間でパリ・アムステルダム・ゲント・チューリッヒ・ローマなど主要都市を巡り、ドイツではケルン・ハ―ゲン・フランクフルト・ミュンヘンなどを訪ねている。
 ノイシュバンシュタイン城で名高いロマンチック街道の一都市ローテンブルグでの印象記を次に記す。
 ― 数百年前そのままと思われる石畳の道々(略)中世そのままの風情を残すローテンブルグ。夕食後に城壁の外の谷あいにある散歩道で、そぞろ歩きを楽しんだ。―
 そして、ミュンヘンでは、美術館の壁面を埋めるデューラーの油彩画に圧倒されている。
 年末になると、毎年いろいろな所で「第九」の演奏が恒例化。作曲は言わずと知れたベートベン、その5番目の交響曲「運命」とともに広く知られている。三矢自身は、音がひしめき合う交響曲よりは、むしろピアノ協奏曲「月光」のような曲が好みだが・。「ローエングリーン」などの楽劇で有名なワグナーもドイツ生まれだ。

*   *   *
 前回のイギリスのように、手がかりになる人名一覧が無いので、この文を綴るために、本棚のアチコチから抜き出した抜粋ノートや読書録。こういう形で利用するなど考えてもいなかったが、確認のため参照していると、その当時に、彼が過ごした時間や驚いたり共感したことの一部が脳裏に蘇り、古いアルバムをめくるかの印象が強かった。

      (’12-12-30 記す)
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