重兼芳子との再会

― 幼少期の股関節脱臼が原因で幾度目かの外科手術を受けたばかりの病室へ、一通の速達が届いた。文面は《「まくた」創刊号に書かれた貴殿の「水位」という作品を、当社発行の「文學界」に転載したいので御諒承ください》というものだった。-
ここから、カルチャーセンター出身の芥川賞作家誕生までの顛末が綴られる。
夏の日永どき、朝夕の無聊を凌ぐため軽いエッセイ集でもと、三矢が図書館の書架から抜き出した一冊の本重兼芳子著「女の一生曇りのち晴れ」である。
 本の末尾の筆者紹介欄には、1979年「やまあいの煙」で第81回芥川賞受賞と記されている。
彼にとって30歳代後半からの10年間余は、コンピュ―タを利用して事務作業を効率化するという、きわめて多忙な時期を過ごしていたため、小説など求めて読むことは殆どなかった。ただ、三矢の20歳代に継続購読していた月刊誌が「文芸春秋」だったので、その延長線上、話題を呼んだ芥川賞受賞作だけは、同誌を求めたり図書館で借りだすなどして読んでいた。その中でも、重兼芳子の「やまあいの煙」は印象に残った作だったようで、多数のエッセイ本の中から「作家名に覚えがある、確か芥川賞?」と、一瞬の判断で借り出したものだ。
 - 強固な地盤に立っていると思い込んでいた私の足許が、ずるずるとなし崩しに崩れてゆく。その頼りない不安がなぜくるのか、自分の存在がどこにあるのか。私は悩み続けた。そうして最後の作品として「水位」を書いたのだ。姑や家族に見つからぬように皆が寝静まった夜中に、こっそりと起きて机に向かった。-
 -「文學界」に転載されるということは、同人誌にのった千篇近い小説の中から選ばれたことになる。-
  -地下室でのリハビリテーションは、私にとって地獄となった。そんな中、もう一篇だけ、「水位」の次にもう一篇だけ、小説を書きたい。と病室の毛布の中に電気スタンドを入れ原稿用紙を広げて、二度目の芥川賞候補になった「髪」という作品は、少しずつその形を整えていった。-

 これ以上引用すると、単なる要約となるので止めるが、こうした作家の心の懊悩というか、人生への立ち向かい方が三度目の候補作「やまあいの煙」に反映されて、彼の心の琴線に触れるものがあったのだろう。
 借り出した本の文章は、引用文からも分かるように行きつ戻りつで、ある意味では粘っこく、途中で投げ出したくなったこともある。しかし、読みついでみると「金と暇のある主婦作家」というマスコミが流布させたイメージとはかけ離れた読後感となった。
 この本のカバー裏に貼られた返却期限票は、二枚重ねになっており、平成10年までで75回あまり。本は昭和59年12月初版とあるから、読者の共感を呼ぶかなりの人気本だったと推察させる。
 三矢とは15歳年上の作者は、敗戦を18歳の青春期に迎えている。多感な時期に時代の大転換を経験した重兼氏の人間観察は、ぐさりと読む者の肺腑をえぐる。
最後にもうひとつ著者の述懐を引用しよう。

 - どんな思春期を過したか、どんな家庭生活を送ったかというインタビューを受けるうちに(略)今在る私という存在は、どんな変遷を経て私という人間が構成されたのか、それを問いかけなければ、なにもはじまらないのではないかと思うようになった。ー

                        (‘14・7・23)


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