沿樹伐採

 先般(2-22)“ワールドカフェ”と標して、市民協働のまちづくりキックオフ講演会が催された。いかにも役所的発想のネーミングで、「一体何をするの?」と思いつつ、私は時間的に余裕が持てるこの時期、担当窓口に直接申し込んだ。
 募集要項には定員80名程度とあったが、当日会場に入ると参加者は40名くらい。そして、市会議員や各種団体の長などを務める顔なじみが多く、一般市民という形の参加者は少ないようだと感じた。(この種の会合ではいつものことだが)会が進行して、講演者松下圭一を紹介する司会者の話を聞いているうちに、「ああ、あの本を書いた人か・」と、かなり以前に同氏の著作を読んでいることを思い出した。
 90年代後半ころより、「地方分権」という言葉が世に喧伝されるようになり、それを契機に私は田村明(横浜市のまちづくり)平松守彦(一村一品運動の推進者)倉沢進(コミュニティ論)などに混じり、松下圭一氏の「日本の自治・分権」と題した著作を読んでいた。(読書メモによれば’00-2月、書棚から同書を抜き出し、再読をはじめた)
 氏のこの日の論旨を一言で要約すれば、「協働とは、市民が公共の一部を担う」ということだが、その話を耳にしながら、私は若年時のある体験を思い起こしていた。以下、FM放送に投稿したエッセイを再録する。

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「美化清掃行事と沿樹伐採」  96-7-27
 7月中旬、当町内会で空き缶拾いなどの美化清掃作業が実施され、後日そのお礼と反省の回覧文の中に次のような一節があった。垣根や庭木の枝が道路上にはみ出し、通行の邪魔になっているケースがあり、美化運動の範囲で対処するのが難しく、町当局へ要望する問題でもない。各戸改めて確認のうえ、適切な処置を望むという意味合いの文だ。
 他所の悪いところはすぐ気付くが、自分の所はなかなか気がつかない典型例ともいえる。この文章を目にして、私は35年以上も前の青年団に属していたころのことを思い出した。
 春秋の神社祭礼の旗木立てや寺の除夜の鐘撞き等々、集落内での青年団の仕事の一つに沿樹伐採というものがあった。年に一度、道路上にはみだしている樹木の枝を切り落とす作業だ。部分的とはいえ、他家の樹木をバッサリというのは気がひける。最初は下に見ている者に何度も確認しながら、おそるおそる切っていた。そのうち、何処の家の木であれ公平に切り落とすのだと考えると、そう罪悪感も湧かない。むしろ、自分の家のものだと、つい、慾目が生じて思い切りが悪くなる。他人が手を下すから公平な仕事になる。いまやっている仕事は、集落内の秩序維持の一端を担う作業なのだと、ある種の矜持すら感じた。私有地(庭や垣根)と公道との境目に発生する一種の軋轢を、巧みに解決する先人の知恵ではなかろうか。
 純農村地帯だったわが集落も進学率の向上や他産業への就業者が増えるにつれ、青年団活動も衰退し、いつの間にかこの沿樹伐採もすたれてしまったようだ。作業に従事していた当時は、子供世代から大人への移行期でもあり、普段はできない“ワルサ”を公認してもらっているようで、カタルシス的な快感をも感じていたが、今にして思い起こせば、慣例という名の自治システムの一環だった。
 10歳余の年齢差のある若衆集団で、こうした作業を通じての人間関係の構築や判断基準の伝達、さらには年齢層に応じた集落成員としての自覚の育成などかなり輻輳した機能を果たす、まさに、自治および共助システムそのものだったと言えよう。「地方の時代」「分権社会」などマスコミ用語に雷同するだけでなく、かって機能していた、古き時代の慣例(自治機能)に目を向けることも必要ではなかろうか。
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 大雪が降れば、集落総出で通学路の雪掻きをしたり、身近な道路の道普請は自前で行っていたかっての集落の自治機能を、少しづつ削ぎながら肥大してきた行政が、「協働」という名を借りて、今またそのかじ先を元に戻そうとしているのかという印象を受ける。 

       (‘14-3-11)

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